日曜日の14時は『ザ・ノンフィクション』
日曜日の14時にフジテレビで
『ザ・ノンフィクション』を見ました。
『春…夢と希望を抱いて故郷を旅立ち、
東京を目指す若者たち』
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こんなテーマで
料理人を目指し上京した若者に
密着取材をしていました。
栃木県から上京してきた千春さん(18)が
かつて「料理の鉄人」にも出演した
洋食界の巨匠・大宮勝雄シェフ(71)が
経営する有名店「レストラン大宮」に就職しました。
同期は3人。
新人3人の中で、
料理への思いが特に強い千春さん。
仕事が終わっても、
寮の自室で自炊し
料理の腕を磨いていました。
千春さんが料理人を目指すきっかけは
中学時代。
がんとの闘病生活で
食欲のない祖母のために
料理を作ったことだったそうです。
食の大切さを実感し
料理人を目指す千春さんは、
往復2時間半も掛けて
調理科のある高校へ進学。
夢に向かって、
真っ直ぐに突き進んできた千春さん…
料理漬けの高校生活を送りました。
しかし、
千春さんの配属は
ホール担当。
一方、
同期入社の2人は調理担当に。
時が経つにつれて
同期と大きく差をつけられていく千春さん。
気持ちが焦れば焦るほど失敗し、
空回りしていく…。
千春さん
『自分はがさつだから
料理は向いていないと思う。
なので
ホールをやろうかな!』
こう決意し
ワインの勉強を始めたところで
番組は終わりました。
テレビを観ながら
昔の自分を重ねました。
私は18歳で
理容の道に進むと決めました。
どうせやるなら
東京で勉強したい!
そんな重いから
この千春さんと同じように
上京しました。
そして同じように
住み込みで修行生活が
始まりました。
毎日毎日、
技術トレーニングで寝不足で
いつも眠い状態。
コンテスト前は
明け方までトレーニング。
キツかったけど
辞めようとは思いませんでした。
それは絶対にここで学んだことを
地元の人に提供したい!
という想いがあったから。
そして18歳の時に
父から言われた言葉。
↓↓↓
『正しい理論のもと
正しい反復練習をすれば
技術は必ず上手くなる!』
そう言われました。
この言葉を胸に
練習を続けました。
想いはありましたが
不器用だった私は
ことごとく失敗ばかり・・・。
いつも先輩から
『なんでお前は
そんなに不器用なんだ!!』
とあきれられていました。
頭の回転も悪かったので
『下回り』と言われる
先輩へのアシスタントも
上手く出来ませんでした。
半年かかって
やっとお客さまのシャンプーを
ゆるされたかと思えば
お客さまのメガネを
お預かりする際に
メガネを落としてしまったり。
カミソリを持てば
手が震えて止まらなくなったり。
カットをやるようになってからは
緊張と怖さから
毎日下痢。
休日になると
『あ~今日はカットしなくて
良いんだ~』
とホっとしていました。
ただ、辞めようとは
思いませんでしたが
ここから逃げたら
楽だろうな~とは
思っていました。
住み込みの寮から
職場に向かう道路で
いつも『いわき』行きの
高速バスが走っていました。
そのバスは東京駅に向かうために
走っていました。
バスを見るたびに
『あ~あのバスに乗って
逃げ出したら
楽だろうな~。』
といつも思っていました。
そんな生活が7年ほど過ぎた時
私に転機が訪れました。
それは
技術セミナー講師の依頼。
私が仕事の勉強のために
所属していた研究グループの
研修会で講師をしなさい
ということでした。
私よりも上手な方は
たくさんいたのですが
若い世代を育てようという
考えだったのでしょう。
セミナーの半年前から
勉強会が始まりました。
その勉強会で
ベテラン技術者10人くらいの前で
カットの説明をしながら
実技を行うという時間がありました。
当時、支店長として
お客さまの髪を1時間に3~4人
カットをしていた私は
緊張しながらも
実技を終えました。
すると
ベテラン技術者の中の一人が
『全然話にならね~!
何を切ってるの?
人の頭はみんな違うんだよ。
お前のカットは
どれも同じように切っている
パターンカットでしかない!』
図星でした。
当時の私のカットは
お客さまをいかに早く切れるかを
追求していたカットでした。
お客さま一人ひとりに
合わせたカットではありませんでした。
自分のカットの
いくつかのパターンの中から
そのお客さまのオーダーの
髪型に近いパターンを
行っているだけ。
スーツで言うならば
万人受けする既製品を
作っているだけでした。
お客さまの一人ひとりの
頭の形に合わせたオーダーメイドの
カットとはほど遠い状態でした。
その日の帰り道
『あ~オレ向いていないな~』
8年もやってこのざまだもんな~』
そこから半年かけて
お客さまの頭の形に合わせたカットを
教わりました。
こんなカットをお客さまに
提供するぞ!
と意気込みました。
しかし
モノにすることは出来ませんでした。
というのも
当時は支店長としても立場上
お店の売り上げを
何が何でも上げなければ
いけませんでした。
その後、修業先を
卒業し実家に戻ってきました。
実家に戻って来てからは
お客さまが少なかったので
カットをする時間をきちんと
確保できました。
出来ましたが
まだ自分のカットが未完成なのを
なんとかしたいと思い
カットセミナーに
通いました。
通い始めて7年が
経過するころ
28歳の時に
思い描いたカットに近づいてきました。
35歳でした。
このころから
お客さまひとりのために
すべて注ぐお店を作りたい!
当時28歳で思い描いた夢を
もう一度考えるようになりました。
お店を作ろうと考えたときに
選択肢は3つありました。
①実家のお店を改装
②テナントを借りる
③車庫を改造する
この3つでした。
①の実家のお店を改装する
実家のお店は祖父の代に立てた建物。
60年以上経過していました。
その老朽化した建物を直しつつ
水道、電気、給湯の工事費を考えると
想像以上の金額が…。
この建物を直してまで
やる価値があるのか・・・?
そんな疑問がありました。
それと両親の年齢(当時70歳)
ということを考えると
私と両親の三人で働くのは
あと何年あるのだろうか?
親子3人で働けるお店を作っても
10年以内には間違いなく
私1人になる。
3人が働けるお店を作っても
結局、働くのが1人であれば
閑散とした雰囲気になるのでは?
②テナントを借りる
北茨城にあるテナントを調べると、
私が借りたい広さで大体、8万円くらい。
これに1年間の12カ月をかけると
8(万円)×12(ヵ月)=96万円。
ここからこの先、30年働く考えると、
96(万)×30(年)=2880万円
固定費にこれだけかけるのは
今後、資金繰りを圧迫するのでは?
と考えました。
毎月に無理のない返済で
何年のローンを組のか?
トータルでいくらのお店が作れるのか?
ランニングコストを考えると
こにお店を作るのが良いのか考えました。
その考えの行きついた先は…。
③車庫を改造する
自宅の車庫を使うのが良いのでは?
と考えました。
両親が経営する隣に
お店を作ろうと考えたのです。
ここならば車庫を改造する工事費だけで
テナント料はない。
固定費を抑えられます。
ここに私1人で最初から最後まで
トータルで接客、施術をするお店を作ろう!
私とお客さまの二人しかいない空間。
お客さまがまわりを
気にしなくてもいい空間。
髪の悩みを気軽にお話できる空間。
車庫を改造してそんな空間を作ろうと
結論を出しました。
建てる場所が決まったら
工事業者さんを探しました。
始めは手探りでした。
ネットで調べた会社、口コミで聞いた会社に
コンタクトを取りサロンづくりについて話し合い
見積もりを取るということを行いました。
一つの会社に対して
一カ月から二カ月の話し合いを費やしました。
相見積もりなどはせず
この工事会社が信頼できるかどうかに
重点を置きました。
どこの会社も
最初は調子の良いことを言いました。
しかし、話を進めて行くと
約束を守らない
テキトーな業者さんいました。
デザイナー気取りで
こちらの考えを聞こうともせず、
奇抜なサロンを提案する業者もいました。
その度に
心が疲れました…。
そんな姿を
一番近くで見ていた妻は
『ホントにお店作れんの???』
と、心配を通り越して
テキトーな業者さんに飽きれている様子。
でも!
私は絶対に諦めませんでした。
このまま今の店でも良いや!
とは1mmも思いませんでした。
最高の空間で
最高の商材で
最高の技術で
最高のお客さまを
やるんだ!!
絶対お客さんを満足させる!
ただそれだけの想いで
踏ん張りました。
そうして一年半の間に
コンタクトを取った会社は
9つ!
地元の工務店から
ハウスメーカーが5社。
ヘアサロンを専門に工事する会社が4社。
この中から業者さんを選びました。
実は9つの会社とやり取りするなかで
工事をお願いした会社は
2つ目に会っていた会社でした。
見積もりをお願いしたところ
金額が高かったので
一度はあきらめた会社だったのです。
もう少し金額を抑えて作って頂ける会社は
ないだろうか?
そう考えて9社を回ったわけです。
おかげで1年半も遠回りしました。
でも、そのおかげで金額は高くても
『オレの想いを一番理解してくれる
この人にお願いしよう!』
と覚悟ができました。
何もないこの空間に
オレの想いを込めよう!
工事がスタートしました。
今回、工事をお願いしたのは
山形県の工事会社。
こだわりが強い私は
めんどくさい客だったはず。
でも、そんな私に根気よく
付き合って頂きました。
レイアウトを何度も何度も
話し合いました。
壁の高さ、棚の位置
仕事をする動線、トイレの位置
様々な部分を細かく修正して
私自身もレイアウトを書きました。
その数、150枚以上。
ずっと思い描いていた構想が
着々と進んで行きました。
その中で水道関係の工事は
地元の業者さんにお願いをしました。
その水道業者は
私の幼稚園時代からの友人。
工事期間が短かったので
日中は大工さんが作業しているので入れず
水道工事の友人は
夜に工事をしてくれました。
早朝から夕方まで違う現場で働いたのに
夜に集って
深夜1時まで毎日やってくれました。
年末もお正月も関係なく
毎日来てくれて準備を手伝ってくれました。
この友人たちがいてくれたから
このお店は作れました。
何でこんなにしてくれるんだろう?
手伝ってもらいながら
毎日想っていました。
もうオレにはどうやったって
恩返しは出来ないくらい・・・。
『友だちだから…。』
という理由だけでは
全然足りないくらい
こんなにもしてくれて
『ありがとう!』
以外言葉が見つかりませんでした。
マンツーマンサロンって
一人でやるから他人は関係ないって
どこかで思っていた自分がいました。
だけど違うんだなって・・・。
たくさんの方の協力があって
今の自分がいる。
オープン前夜に完成したお店を見ながら
涙が溢れました。
何度も何度も東京のショールームに行き
カットされる時に快適な座り心地の椅子を探しました。
シャンプーされていて首が痛くならず
まるでベットで寝ているような
シャンプー台を探しました。
どうせやるならば最高の器材で
お客さまをお迎えしたい!
そんな想いで
たかがカット椅子に
100万円以上かけて
たかがシャンプー椅子に
100万円以上かけて
経営者としては正しい選択では
なかったかもしれませんが
私の想いを優先した自慢のお店です。