親父は背中で語れよ!
第一生命保険が毎年恒例の
「大人になったらなりたいもの」について
アンケートを行いました。
2022年の
小学生男子の1位は「会社員」、
女子の1位は「パティシエ」。
ちなみに私の小学生の夢は
『野球選手』でした。
と言っても
仲の良かった友だちが
みんな野球選手って書いていたから
自分も書いただけでした。
本当の夢は
『消防士』でしたけどね。
子どもがなりたい職業を
聞かれたときに答えるのって
テレビで見るその職業のイメージで
決めるんでしょうね(^^♪
きっと、楽しそうだな!
きっと、かっこいいだろうな!
そんな気持ちから
答えるんでしょうね。
我が家の息子は
小学4年生と小学1年生。
明日、息子たちの通う小学校では
今年度最後の日。
終業式があるようです。
そんな終業式を前に
長男が動画を持ってきました。
例年では、
3学期最後の授業参観で
『二分の一成人式』
というのをやるはずだったようです。
長男は、現在小学4年生で
ちょうど10歳なので
二分の一成人式の当事者だったわけです。
ですが、
コロナ禍なので中止になりました。
そんな中止になった
二分の一成人式で流すはずだった
動画を持って帰ってきたわけです。
そこには
小さいころの写真に始まり
現在の『将来の夢』が
音楽とともに流れていました。
↓↓↓
息子には、
仕事は自分のやりたいものを
やれば良い!
お前の人生は
お前自身で勝ち取れ!
常々、そう言っています。
それが、『理容師』とは・・・。
私は自分の仕事を
一生をかけてやるに値すると想い
この仕事にすべてをかけています。
と言っても
私の場合は息子と違って
自分から『理容業をやりたい!』
と言ったわけではなく、
親父に無理やり
やらされたわけで(;^_^A
高校卒業後
『どうせやるならば東京でやりたい!』
そう言って
東京の専門学校に進みました。
なので専門学校に入学しても
特になんてことはなかったです。
それでも
茨城の田舎者が東京に行くのは
勇気のいることで
生活をしていくことに関しては
不安でいっぱいでした。
そんな不安の中、
専門学校で授業が始まりました。
その授業の一環で
当時の業界の有名な人を
学校に招いて
技術を見てお話を聞く
という時間がありました。
その有名な理容師は
私が小さいころから見てきた
親父がやっているような理容師ではなく
めちゃくちゃカッコいい
理容師でした。
その人の繰り出される
流れるような手の動きで
モデルさんをカットしていく姿に
私の心は衝撃を受けました。
なんだ!?
なんだ、この世界は!?
理容師・・・。
かっけーじゃね~か!!!!
それまで
理容師と言えば
角刈りとパンチパーマの
イメージでしかなかったのに・・・。
『オレは、
こんな理容師になりて~!!!』
そう決意しました。
そこから来る日も来る日も
トレーニングを行いました。
ある時、
友人から飲み会の誘いが
ありました。
飲めないから嫌なんだよな~
と思いながら行ったその場所で
自己紹介をした時に
初対面の相手から
『えっ!びようし?
えっ、りようし?
なんで?
美容師になれば良いのに~』
と笑われました。
当時は、美容業界全盛期。
カリスマ美容師や
木村拓哉主演のドラマ
『ビューティフルライフ』の時代。
その時、私は
『今に見てろよ!
俺が理容のすごさを見せてやる!!
何年かかっても
絶対見せてやるわー!!!』
熱くなった私を
友人が止めに入るほど(;^_^A
親に言われ
嫌々ながら理容業界に入ったにも
かかわらず
すっかりこの世界に
ほれ込んでいました。
それから数年後、
理容師の修行生活を
無事に終えた私は、
茨城の実家で
働くようになりました。
その時、28歳。
18歳で憧れの理容師に出会ってから
10年が経過していました。
理想のお店をこの茨城に作るぞ!
そう意気込んでいました。
しかし・・・。
実家のある茨城に帰ってきましたが
お客さまがいませんでした。
当時の私と両親。
↓↓↓
来る日も来る日も
父のカットしたお客さまを
お顔そりをしたり
シャンプーをしたりする毎日。
接客であったり
技術自体は好きなので
やることは嫌では
ありませんでしたが、
自分が働き始めたことで
いきなりお客様が増えるわけでもないので
売上が上がるわけではありません。
そのため
給与も
思っていたより…下。
そこへきて結婚したばかりだから
もう大変!
生きていくことの
大変さを初めて知りました。
そして
この頃から1カ月に1人か2人くらい
新規のお客さまが来てくださいました。
そのお客様を精一杯やりました。
でも
1人か2人増えただけでは
食べていくほどの売上ではありません。
まだまだでした。
自分が信じてやってきた
この仕事って何なんだろう?
一人前に技術が出来れば
輝くような未来が待っている…。
そう思って寝る間を惜しんで
トレーニングしてきた日々は
何だったんだろう…。
情けなくて、
悔しくて、
涙が止まらなかった。
自分がやってきた10年間は
こんなものなのか…?
理容の世界に幻滅した瞬間でした。
毎日モヤモヤした気持ちで
仕事をしていました。
それでも
来て頂いたお客さまには
精一杯やらせて頂きました。
今までは時間を気にするあまり
しっかりと切り込めなかった時も
ありましたが、
実家で働くようになってからは
時間よりも良い仕上がりになることを
最優先に仕事をしました。
そうすると
ある事に気づくのです。
それは
自分の出来る部分と
出来ない部分があるということでした。
自分の弱点です。
この弱点を克服するために
あるセミナーに行きました。
それまでの私はセミナーで技術は
覚えられない!
技術はお店で師匠や
先輩の仕事を見なければ
身につかない!
そう思っていました。
しかし、せっかく学んだのだから
しっかり復習をしてみようと思い
毎日トレーニングするというのを
修業時代以来、再開しました。
そうすると
本気で学んで本気で復習をしたおかげで
それまで出来ていなかった技術が
身につけられるようになりました。
この頃からちょいちょいとセミナーに
行くようになりました。
決して安くはない受講料に
東京までの交通費。
自分の給料ではやりくりがつかず、
妻の働いた給料から出してもらいました。
何も言わずに
『勉強頑張ってきてね!』
そう言って送り出してくれました。
新婚時代のアパート
↓↓↓
絶対に絶対にコイツを
もっと楽をさせてやる!
何度も何度もそう想って
セミナーへ向かいました。
そうして
1年が経ちました。
でも
働いても働いても
生活は決して楽にはなりませんでした。
ちょうどこの頃
ある迷いが出始めるのです。
実家で働くようになり
1年が経過しました。
新規のお客様は相変わらず
月に1~2人。
生活はいっこうに
楽にはなりませんでした。
そんな中
ある迷いが生まれます。
その迷いとは…。
やっぱり
親子2世代でお店をやるのは
難しいのでは…?
田舎でそれだけの人数の
お客さまを集めるのは無理なのでは…?
そう考えるようになりました。
そして
もう一度東京へ戻って
働いた方がいいんじゃないか?
そう考えました。
でも、
本当に働けるとは限らない。
であれば
具体的に動いてみよう。
その後、給料が良さそうな所に
連絡をして面接をすることに。
3つの会社を受けました。
生まれて初めて
履歴書を書きました。
書きながら両親を裏切っているような
気持ちになりました。
でも、
将来を考えると…。
このままここにいてもジリ貧。
自分一人ならば
やっていけるかもしれないが
家族を抱えてやっていくのは…、
無理…。
そう想いながら
試験を受けました。
落ちたら、実家のお店に残るので
両親を裏切らないで済む。
合格ならば
オレはまだまだやれるんだ
という実証が出来る。
この二つの想いが
幾度となく交差しました。
結果は…、
3つとも合格。
この時、
『オレはやれる!』
という気持ちは2割。
あとの8割は
これで実家を出ることになるのか
という気持ち。
ずっと
後を継ぐために!
そう想って頑張ってきたのに…。
合格の知らせから
1週間後、
三社からは、いつから働けるのか
連絡が相次いで来ました。
面接を受けたけれど
吹っ切れなかった私は
返事をあいまいにしていました。
いつ言い出そうか。
ずっと悩みました。
お互い気の短い私と父が話しても
まともな話し合いにはならない。
そう考えた私は
『手紙』を書きました。
今までのこと、
これからのこと、
何度も何度も書き直し
どう伝えたら
一番冷静に話し合えるのか。
手紙を書き終えた私は
今度はいつ渡そうか悩みました。
考えれば考えるほど
渡せなくなったからです。
そうして父の寝る布団の上に
そっと置きました。
そして自宅に帰りました。
それから2時間後
母から電話が来ました。
呼ばれて行くと
なんとも言えない空気が
部屋に立ち込めていました。
もう、どんな話をしたのかすら
今となっては覚えていません。
次の日の仕事のことを考え
この日は平行線のまま帰宅することに。
翌日、仕事をしても
何も話さず帰宅しました。
これからどうなろうと
決意は変わらない!
そう想いながら
眠りにつきました。
翌朝、
携帯の着信で目が覚めました。
母からでした。
母
『お父さんがおかしい!すぐ来て!』
電話を切ると走って
実家へ向かいました。
救急車を呼んだ後でした。
まもなくして救急隊員が来て
父が運ばれました。
オレのせいだ…。
自分ががあんなことを
言い出したから
心労でこうなったんだ…。
その夜、
翌日に講習を控えていたオレは
車で東京へ。
運転する車の中で考えました。
あんな父の姿を見てまで
家を出るべきではない。
その日の夜、
母にもう一度みんなで頑張ろう!
とメールを送りました。
この日から、
私の気持ちは変わり
もう一度この実家のお店でやろう
と思いました。
何とも言えない不安の中
突き進むしかない。
そう想いながら
日々のサロンワークに励みました。
しかし、
世の中はそれほど甘くはありません。
そう簡単に
お客さまは増えません。
感情的になって流されたけど、
現実は厳しい。
一カ月後、
やっぱり無理だな…。
そう考えた私は定休日の朝に
『あの時は感情的になり流されたけど、
冷静になって考えてみると
やっぱり難しいと思う。』
そう、
母に言おうと思いました。
玄関を開けて家に入ろうとした時、
これから講習だから
その前にひと悶着するのはやめよう。
そう思って
講習会場に向かった。
予定通りの講習が終わろうとした時、
講師の先生が
『少しだけ時間を下さい!』
そう言いました。
そしてホームページやブログで
発信していくことの大切さを
教えて下さいました。
知らないということは
無いのと同じこと。
伝えなければ伝わらない。
何か大きな力で打ち抜かれたような
衝撃が全身に走りました。
やり尽くした…。
そう思っていましたが
まだ、やり残していたことがあった。
この日帰ったら
母に家を出ると伝えようと
考えていた私でしたが、
この日からホームページを
作ることを決意しました。
『まずはブログから始めると良いよ!』
という講師の方のアドバイスを受け、
ブログを書き始めました。
その時のブログがこちら。
↓↓↓
↑↑↑
今から比べると
ずいぶん拙い文章です。
でも、即行動しました。
それから
ホームページ作りを始めました。
パソコンも買いました。
当時の私は
パソコンの知識が全く無し!
右クリックが
分からなかったり、
キーボードで小さい『っ』の文字の
打ち方が分からないレベル。
そのぐらいひどかったです。
毎夜3時間ほど
パソコンに向かいました。
そうして半年間続け、
友人や先輩の助けを借りて
ホームページが完成しました。
と言っても
すぐにお客さまが増えるわけではなく
地道にコツコツと
やっていくしかありませんでした。
サロンワークを繰り返しながら
自分の技術の足りないところを探りました。
その結果
理容師の得意とする
かっちりとしたカットは出来るが、
美容師さんの得意とするような
柔らかい雰囲気の
スタイルが苦手だと分かりました。
この弱点を克服するため
7年ほどカットの講習に行きました。
理容師として
10年の修業を終えましだが、
この弱点を克服するのには
これだけの歳月がかかりました。
この間に
次第にお客さまは増えていき、
実家に戻って
3年目で少し忙しくなり、
5年目でもっと忙しいお店に
なりました。
7年が経つ頃には
帰ってきて働き始めたころからは
想像ができないくらい
忙しいお店になりました。
ちょうどその頃
将来を考えた時、
このままで良いのだろうか?
そう考えるようになりました。
次に考えたのは将来の
お店のことでした。
父と母とオレの
3人体制でやってはいるが、
両親の年齢は
70歳。
あと何年現役で
いられるか分からない。
そう考えるとお店の改装も
いろいろ問題点が出てきました。
問題点は次の2つ。
①現在の3人体制から
将来オレ1人になった時を
考えた改装が出来るか?
②築50年を超えた
今のお店を改装するのが
果たして本当にいいのか?
詳細は、今回は省きますが
1年半の業者さんとのやり取りの末
バーバーショップゲインを作ることにしました。
守破離(しゅ、は、り)という言葉を
ご存知でしょうか?
この言葉は『武道』から来た言葉です。
『守』とは、
師の教えを忠実に守り、
そこから外れることのないように
精進して身につけなさいという意味。
『破』とは、
今まで学んで身に着けた教えから
一歩進めて他流の教えや技を
取り入れることを心がけ、
師から教えられたものにこだわらず、
さらに心と技を発展させなさいという意味。
『離』は、
破からさらに修業して
守にとらわれず破も意識せず、
新しい世界を拓き独自のものを生み出せ!
という意味。
18歳でこの業界に入り都内で修業し
理容の基礎を学んだのが『守』。
実家で家族で営みながら
自分の技を一歩進めて
他流の技を取り込んだのが『破』。
そして独立した現在が『離』。
これから新しい形を作っていこうと決め
2017年に独立しました。
長男が5歳の時です。
そこから5年間、
息子なりに私の姿を見てきたのでしょう。
まだ、10歳。
今はまだ
他の仕事がわからない年齢です。
今から8年後、
何を選ぶかは本人の自由。
その時が来るまで
親父の背中は
いつまでも大きく
いつまでも熱くいよう!
長文にもかかわらず
お読み頂きありがとうございました